【那須温泉の歴史】大火に消えた街並み。昔語り館館長に聞く飛鳥時代からの物語

アートと文化

長い長い歴史をもつ、那須温泉。

今では有名な観光地となり、地元の人だけでなく、全国の人々から愛されている温泉です。今回は、「那須温泉 昔語り館」の館長を務める「阿久津さん」に、那須温泉の歴史についてお聞きしました。

前回の記事では、「阿久津さんが昔語り館を開いたわけ」をまとめていますので、ぜひご覧ください。

飛鳥時代にまで遡る那須温泉の歴史

ーー那須温泉には、1300年以上の歴史があると聞いていますが、那須温泉の始まりのお話をお聞きしてもよろしいでしょうか。

那須温泉は、舒明2年(630年)に見つかったと言われています。

正倉院には、『駿河国正税帳』という入湯税を記録しておく台帳があり、そこに「湯治のために那須温泉に向かった」という記述が残されているんです。これは、738年に記されたもの。

この頃にはすでに、那須温泉の存在が、奈良の都に知られていて、西の国からはるはる那須の地までやってきていたということなのですね。

ーー奈良時代の書物にしっかりと記録が残されているのですね。

江戸時代に温泉街を襲った安政の山津波

もともと那須の温泉街は、湯川の谷底にありました。

昔は、湯川の周りに掘っ建て小屋のような共同浴場がたくさんあって、そこが温泉街になっていました。

主泉は鹿の湯なのですが、そこに違うお湯を混ぜることによって、「火傷に効くお湯」「神経痛リウマチに効くお湯」「皮膚病に効くお湯」というように、温泉が分かれていたんです。

ーー湯川の谷底というと、今の鹿の湯のある場所ですよね。今は那須街道沿いに温泉街がありますが、昔は場所が違っていたのですか?

そうなんです。江戸の安政5年(1858年)大雨による山津波が起きてしまい、この時に両側からの土砂崩れで、川沿いの温泉街が全て流されてしまったのです。

土石流の高さは、低いところで2m、高いところで5mくらい。鉄筋コンクリートでもないし、土石流の勢いがあるので、建物は全部壊れてしまいました。

人も亡くなり、供碑も立っていて、「10日ほど雨が降った」「老人や子供溺れ死ぬ者18人」などの記録も残っています。

当時那須町は、黒羽藩に属していました。その時の黒羽の藩主「大関様」が、もう一度この下に街を作るのは危険だからといって、新しい通り(那須街道)を作ってくださったんです。

その時、下に並んでいた並びと全く同じ並びで、一軒たりともずれないように旅館を建ててくれました。それが、今の那須街道沿いの温泉街です。

黒磯駅ができ、ますます活気づく那須温泉

明治19年になると、黒磯に駅舎が建ちます。車やバスで移動ができるようになるまでは、那須に向かう人のために、駄馬(馬)・馬車・人力車などの交通手段を用いていました。

駄馬は、一人二頭まで引くことが許されていたそうです。一頭に荷物を乗せ、もう一頭に自分が乗るなどしていました。

馬車は、二頭引きは6人まで、四頭引きは10人まで乗車できたそう。那須温泉や板室温泉までの遠距離の移動に使われたのは、主に四頭引き10人乗りでした。

人力車は、一人引きと二人引きがありました。急を要する時には二人引きが用いられ、一人が舵を取りもう一人が前方の綱を引く方法で走っていたようです。

他にも背負いかご(山かご)は、那須温泉から大丸温泉や弁天温泉までなど、山岳道や近場の公園などを遊覧をする時に使われていました。全盛期には、40台あったと言われています。

ーー黒磯から那須まで歩いて来たのですか?

そうなんですよ。昔の人は、1日20km30km歩くのは平気でしたからね。

道路の真ん中にあるのは、共同浴場です。この頃、各温泉に内湯がなく、共同浴場に無料で入れました。

鹿の湯での湯治の様子

湯治客は、「最低でも2週間いないと治らないよ」と言われていました。もっと長い人は1ヶ月、2ヶ月、もっともっと長い人は半年くらいかかる人も。観光などで遊びに来るのではなく、病気を直しに来る病院のようなものだったんですね。

鹿の湯といえば、被り湯200回。

後ろで人が待っていますよね。当時は湯船がひとつかふたつしかないので、みんな待っているしかなかったんですね。被り湯は50度なので、みんなが被り湯を終えてから、湯もみをして冷まさないと入れなかったんです。

ーーそれにしても50度とは…ものすごく熱そうです

これは、湯もみをして冷ましてるところです。

メガネかけている方が、湯長さん。草津から那須に来て、薬湯の浸かり方などを伝授してくれたんですね。

「腰まで1分→肩まで2分」で合計3分。1分ごとに、後ろの人が前に出るんですね。この頃の温度がなんと52度!火傷する一歩手前ですね。

長く入ってると皮膚がただれてくるんです。その代わり、体の中の毒を毒で制すような感じで、皮膚病や火傷も全部皮が剥けるんですね。痛いですけどね…

当時皮膚科がなかったので、湯長さんが見てくれていました。

「あなたはもっといなさい」
「あなたはもう大丈夫」
「あなたにはこの温泉は強すぎるから、別の温泉に行きなさい」などと問診をしてくれたそうです。

そして、鹿の湯とは別にあったのが、仕上げの湯です。皮膚が強い人は最後まで鹿の湯に入って治し、肌の弱い人は、単純泉である、大丸温泉・八幡温泉・新那須温泉などで皮膚の治療をして帰っていました。

ーー今の鹿の湯には、女湯には41℃〜46℃、男湯には41℃〜48℃の温泉がありますよね。ちなみに私は43度でギブアップでした…

戦争と那須温泉

時代の変化とともに、那須温泉の景色も徐々に変わってきます。道路の真ん中にあった共同浴場がなくなるんですね。共同浴場がなくなったのには、主に3つの理由があります。

①内湯が広がった
各旅館に内湯ができたので、道路の真ん中に共同浴場を建てておく理由がなくなりました。

②車が走り出した
各旅館さんが1台ずつ車を所有することになったんです。馬車が走らなくなったので、お客さんを黒磯駅から送迎するために車を持ったんですね。大正8年に一斉に那須に車が入ってきました。車が走るようになると、道路の真ん中の共同浴場は邪魔になりますよね。

③戦争で観光客が来られなくなった
那須のお湯は傷に効くお湯だったので、日清日露戦争の頃から来ていて、第二次世界大戦の間もずっと負傷兵が来ていました。米も配給になってしまったので、どんどん観光客が来られなくなってしまったんですね。

その代わり、日本帝国陸軍が、那須の温泉街の宿屋を全て借りたんです。そして、負傷兵を泊めて温泉療養させ、傷を癒していました。

大火に消えた那須温泉の街並み

第二次世界大戦の終戦間際、1945年(昭和20年)8月1日に那須温泉で火事が起きます。

その日、那須の上空を新潟方面に向かって、B29が30~40機飛んだことで皆が一斉に逃げたんです。火事の原因は照明用のろうそくと言われていて、一晩にして温泉街が全焼してしまいました。

この街並みが残っていれば、国の有形文化財になって、道後温泉や銀山温泉などと並んでいたとも言われています。

ーー本当に見事な街並みですよね。当時の方々のことを思うと心が痛みます。しかし、全焼してしまっても、今もなお那須温泉が受け継がれていることに、当時の方々の思いを感じます。

ーーもっと詳しいお話をお聞きしたい方は、阿久津さんのいる「民宿松葉」まで。お食事が終わった後に、大広間を解放して、大きなスクリーンに映像を映しながら、昔語りを聞くことができます。20時〜22時くらいの間にお酒を飲みながら聞けるそうです。どの宿に泊まっている方でも参加可能だそうですよ。

※新型コロナウイルスの影響で開催できないこともあるので、直接お問い合わせください。

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