このサイトの名前にもなっている、「那須駒(なすこま)」についてご説明していきたいと思います。
歴史を感じる貴重な写真と一緒にお楽しみください。
那須駒とは?
那須駒とは馬の種類のことではなく、地域産の馬の総称です。
がっしりした短い足と大きな蹄(ひづめ)がその特徴。
那須の産業を支えていた那須駒
明治30年代~昭和40年代まで、黒田原駅の北側に“馬市場”があった頃。
春は黒田原、秋には迯室で、それぞれ3日間に渡って馬の競りが行われていました。
これまで長きにわたって、那須の産業を支えてきたのが、この“那須駒”
那須の地は、産馬に適した土地として推奨され、数多くの名馬を産出してきたという史実があります。
そして何よりも、馬は人々が生活を送る上で、なくてはならない存在として親しまれてきました。
那須与一と那須駒
“那須駒と那須の人々”の関わりは歴史が古く、平安~鎌倉時代にまで遡ります。
あの『平家物語』の扇の的伝説で知られる、「那須与一」も那須駒に跨り戦いに臨んでいました。
愛馬だった「鵜黒の駒(うぐろのこま)」が与一の死後、那須の原野に放たれて半俵(はんぴょう)地区で亡くなったため、村人がこれを埋葬し馬頭観音を建設したと言われています。
大切な家族の一員だった那須駒
那須町のいたるところに建っている、馬頭観音。
故人たちが眠るお墓の横に建てられていることもあり、当時の人々と馬の結びつきの強さが伺えます。
農家では、農耕馬を家族の一員として大切にしていました。
外ではなく家の中に厩(うまや:馬を飼う場所)を設け、共に生活していたのだそうです。
軍馬・農耕馬として活躍
昭和初期に入ると、栃木県の共進会で数多くの受賞、大阪での全国博覧会では2位に入賞するなど、高い評価を受けていた那須駒。
関東地区共進会では、8割以上が上位独占。
軍馬としても農耕馬としても、全国各地から注文が殺到したのだそうです。
一時は出馬頭数も500頭台数を超え、北海道に次いで全国2位の実績をあげるようになりました。
姿を消していった那須駒
人々の暮らしを支え共に生きてきた那須駒も、終戦を迎え昭和中期(高度経済成長期)になると、耕運機やトラクターにその役目を奪われ、また戦後乳牛や和牛の飼育が進んだことなどにより、徐々に姿を消していきました……。
那須駒は、那須町の産業を支えてきた大切な町の愛馬として、そして大切な家族の一員として、今も那須の人々の心の中に生きているのです。
那須駒年表
明治5年(1872)
「下野産馬協同組合会社」設立
高久本郷で市が開かれるようになる。
明治21年(1888)
「那須村産馬組合」が組織される
春は黒田原、秋は迯室で3日間ずつ市が開かれる。
明治33年(1900)
陸軍による那須派出部設立(田島地内)
軍馬の育成が行われた。敷地は、2000町歩(約2000ヘクタール)にもわたり、2歳から5歳までの牡馬(おすうま)だけが300頭ほど飼育された。
のちに馬市は、馬格の向上と軍馬購入地として指定される。
昭和7年(1932)
全国博覧会での入賞
大阪で開かれた全国博覧会で、那須駒が兵庫県に次いで第2位に入賞。
昭和9年(1934)
関東地区共進会で8割以上が上位独占
那須駒の名声は高まり、軍馬にも農耕馬としても全国各地から注文が殺到した。一時は出馬頭数も500頭台数を超え、北海道に次いで全国2位の実績をあげるようになった。
■参考
2009年 随想舎 社団法人那須観光協会那須検定実行委員会 『那須学物語』135P・136P
■写真の提供
・那須町「那須温泉 昔語り館」
・那須町「金子書店」
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